被災地 宮古教会 訪問報告
八幡浜教会・八幡浜幼稚園・地域の皆様・南予分区各教会の皆様
この度は、私ども八幡浜教会と牧師森分望・森分信基の呼びかけに応じて、多くの皆さまの温かいご協力・ご支援を賜りありがとうございます。
森分望伝道師は、3月21日(火)食糧品や懐中電灯など約50キロになった皆さまからの支援物資を持って出発しました。3月22日(水)花巻空港に着き、バスを乗り継いで、宮古教会(教会員9名)に遣わされております弟森分和基牧師(ひかり幼稚園68名)のもとを訪れました。
和基牧師が、園長として働いているひかり幼稚園は高台にあり園舎は被害をまぬかれました。園児と家族・宮古教会教会員は、皆無事が確認され、ひかり幼稚園は卒園式を終えることが出来たそうです。
しかし、宮古湾には、10メートルの堤防を越えて津波が押し寄せ沿岸地域は、壊滅的な被害を受けました。特に、宮古市田老・赤前地区・山田町・大槌町などは、集落ごと流されました。園児や教会員の中にもこれらの地区に住んでいた方があり、家を流され着のみ着のまま家族で避難されている方もおらます。
宮古教会は、宮古湾から約1.5キロの地域にあり、教会周辺は2メートルを超える津波に襲われました。バスの着いたJR宮古駅を境に沿岸地域に入ると、道路は瓦礫の山になっており、油とヘドロの匂いが漂っていました。
宮古教会・牧師館は、同じ敷地の中に建っていますが、会堂の中にも150センチほどの津波が入り、礼拝堂の椅子は津波で倒れ、昨年春100周年記念で購入したロジャースのオルガンは、講壇から会堂の後ろの方まで飛ばされていて、ヘドロまみれになりました。到着したときには、奥中山教会・カナン園の皆さんに助けてられて驚くほど会堂の片づけが進んでいました。また、近隣の住人の方・盛岡YMCAから派遣されたスタッフやボランティアの方の協力があったと聞きました。オルガンやピアノ・コピー機・教会のあらゆるものがだめになり瓦礫の中に山積みに出されていました。敷地は、ヘドロが積もっており、かき集めては土嚢に入れて捨ててきたようですが、まだまだ、ヘドロが残り悪臭を放っていました。
和基牧師は、もっぱら近隣の家屋の瓦礫撤去や津波で駄目になった家具やヘドロを出して片づける作業に取り組んでいました。また、教会は、YMCAボランティアの拠点として受け入れ、地域の瓦礫撤去や片付け・地域の情報収集・物資の配布をボランティアの協力によって進めています。
22日時点では、透析指定病院の自家発電の灯があるだけで、電気・ガスは、沿岸地域にはまだ通っていませんでした。朝晩氷点下になる場所で、暖房も懐中電灯も持たない中、町の復興のためにも教会を離れられないとの意志が強く、真っ暗の中、持参した懐中電灯やランタンを灯して二人で過ごしました。こんな中で一人で生活しながら、皆の安否確認や瓦礫撤去作業をしていたのかと思うと支援が入るまでの初めの10日の厳しさを思わされました。夜になると、余震が度々起こり、震度4,5の強い地震が度々起こりました。避難の準備をして常に逃げられる格好で休んでいます。
教会のある宮古市大通りと面した末広町商店街・近隣の家でも昼間は、少しずつ片づけが進み、瓦礫の撤去が行われて行きました。商店街では、瓦礫を撤去し、津波によってシャッターが壊された店舗の中から、使えそうなものは水でじゃぶじゃぶ洗って、中身の大丈夫だった醤油やビール・衣類なども物資にも困っている近隣の住民に販売されるなど、店が一軒また一軒と再開され、町を復興していこうとする地域の方達の力にこちらが力づけられました。しかし、未だに町のあちこちに漁船が突っ込んだままの状態でもあります。
築10年の牧師館は、和基牧師の近隣の片づけを終えてからとの気持ちもあり、支援のためなら働いても、自身のことには全く思いが行かず、手もつけられないで茫然としてしまうという被災者としての痛みもあり、手つかずのままでした。扉を開けると1メートルくらい津波が入ったことがわかりました。一面ヘドロが積もり、家電製品、冷蔵庫・洗濯機また、机やソファー、衣類、書籍など一階のものは、全て瓦礫となりました。
牧師館や教会の片づけもYMCAの呼びかけに応じてこられた山の会のボランティア・YMCAのスタッフの方達に助けられながら、29日帰る日の朝まで、ヘドロを出し水で流す作業を繰り返しましたが、生活できるまでには、次々と問題があり、何とか力になりたいと思って外から現地に行った者でも、何度も茫然となっては多くの方の善意に励まされ作業を行いました。4月に入って、教会・牧師館共に全壊の罹災証明が発行されたと連絡がありました。
滞在した8日間の間にも次々と支援が届けられていました。食糧やガソリンの確保が困難な中、奥羽教区議長の度々の訪問、奥中山教会からの継続的な支援、北海道教区から軽トラックで物資や食糧が運ばれました。また思いがけず、中心になって奥羽教区の支援活動をされている関学神学部同窓の牧師とも次々と宮古で会しました。その多くの牧師が関西で阪神淡路大震災の経験者であることは、あの阪神での苦しかった経験、支え支えられた経験が、この未曾有の事態にも被災地と被災者のため具体的で地道な支援者の背景にもあることを感じました。
滞在中に、皆さまが持ち寄ってくださった八幡浜からの支援物資も集配所まで届けられました。
3月27日(日)は、地震から3回目の日曜日を迎えました。教会員が次々と集まりお互いの無事を喜びながら礼拝を捧げました。何度も拭きあげられた椅子を会堂の後ろの方にロの字に合わせ、讃美歌を歌い和基牧師の短いメッセージを聞きました。教会員一人ひとりが現状を話し、ボランティアの方達もみんな近隣の店舗のヘドロの片づけを中断して教会に戻って礼拝に出席されました。被災した教会員・地域の方・ボランティアそれぞれの思いが語られた礼拝となりました。どんなに絶望深い事かと思われるこの地で、皆で神様に救いと慰めを祈り、神様への感謝の言葉を聞きました。深い悲しみの中になお、神様の真実はいっそう深く臨んできて、悲しみの中にある人たちの間にも私の内にも生きる力と望みを与えて立たせてくださることを感じました。
宮古教会の方達の話された現状は、体の不自由な家族と逃げることが出来ずに家の中で津波に襲われ水が引くまでの30分ベッドの上に立って津波から顔だけ出して助かった方、住宅が壊滅的な状態で避難所生活をされているかた、高台の家で助かったけれども津波の一部始終を目撃し被災した家族を引き取った方、自分の家の目前から近所の家と人たちが流され怖くて悲しいと震えながら話された方、直接津波の被害に合わない地区におられても親戚や友人を失くし、家族は地元の消防団として捜索活動に従事して被害の甚大な地域の現場で毎日活動されている方、自分も津波の被害に遭いながら避難所の世話役をされ、家にも帰ることも眠ることもままならない状況にある方、それぞれ想像を超える厳しい状況におかれていることを伺いました。
3月29日、地震から3週間経って大通りとその周辺で初めて教会・牧師館の一部に電気が灯りました。ボランティアの拠点は、寝泊まりも含めてひかり幼稚園から教会に移されました。
あまりの大きな被害と過酷な状況の中で、茫然となりながらも、生きていくためとにかく力を合わせ励まし合い、皆が無我夢中で日々を送っていました。
未曾有の被害の中、現地の人たちの生活はあまりに過酷で、外からの具体的な支援が必要であることを痛感しました。
毎日数人がかりでも数日では終わらない泥まみれの瓦礫撤去、ヘドロ出しを繰り返しますが、被害は深刻で家の形が残っていても津波に浸かってしまった周辺の家ほとんどが全壊の判定のようですが、茫然となりながらも立ち上がろうとする被災者にとって、外からの支援はささやかながらそっと立ち上がるのを支える杖の役割を果たしているのではないかと感じました。
離れたこの地からも行政の届かない細やかな支援が必要であると感じます。家族は家族を、友人が友人を、教会は教会の現状をよく知り、支えなければこのような未曾有の危機を被災地や被災者が乗り越えることは困難だと感じました。
私たちは、被災者家族であり、和基牧師を送り出した出身教会の牧師
でもあります。教会・幼稚園・近隣の方々、ボランティアの様子が日々伝わってくるので、何とか皆さまの助けをお借りして和基牧師とその活動を支えて参りたいと願っております。
4月に入り、教会周辺にも灯が戻り、現在では近隣の住人の方達も戻ってこられるようになったそうです。少しずつ環境がよくなっては来ています。先日、大きな洗濯機を送ってほしいと連絡が入りました。津波に遭った地区では、どの家も家電製品が駄目になり、あちらでは、洗濯機を注文しても何週間も先、1ヶ月以上かかってもいつ入ってくるかわからない状態だそうで、毎日ドロドロの洗濯に困っています。教会に泊まり込んで働いているボランティアの方や近隣の方も使えるようにとのことで早速大洲から送り出しました。
現在、和基牧師は、さらに被害の大きかった岩手県大槌町のみどり幼稚園の再建委員としても働くことになりました。
大槌町は、集落ごと流され町役場も流された上に、火事がでた地域です。みどり幼稚園園児にも行方不明や亡くなった子どもがいます。また、建物への被害も深刻で一つには、道路や敷地、建物の中にとり除けないで残ったヘドロからウジがわき始めています。ライフラインの復旧などもまだまだ遅れているようです。
皆さまから送って頂いた物資(肌着・歯ブラシ・水その他も)は、ひかり幼稚園の家族の方と近隣の方、このみどり幼稚園にも届けられました。
これからもまだまだ先は長くなりそうです。共に祈り御支援賜りますようお願い致します。